米林宏昌監督
スタジオジブリを退社いたしまして、初めての長編映画となります。今は、西村プロデューサーが設立したスタジオポノックという会社で、優秀なスタッフとともに、鋭意、新作を製作しております。
西村プロデューサー:
まずは、「なぜ私と米林監督がスタジオポノックを立ち上げ、1本の映画を作ろうとしているのか?」というところからお話したいと思います。スタジオジブリで、米林監督は「借りぐらしのアリエッティ」と「思い出のマーニー」、僕は「かぐや姫の物語」と「思い出のマーニー」という2作を作りました。
2013年に宮崎駿監督作品「風立ちぬ」、高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」と、1年に2本が公開され、9月には宮崎駿監督の引退記者会見もありました。当時、僕は「かぐや姫の物語」のプロデュースをしており、現場はきゅうきゅうとしている中、さらに米林監督の「思い出のマーニー」の制作準備に入っていました。「かぐや姫の物語」は公開が危ぶまれ、ついには公開延期となっていましたが、そんな中、宮崎駿監督の会見の数カ月前、鈴木敏夫プロデューサーに呼び出され、「西村、高畑さんも、宮さんもこれが最後になるかもしれない。このままの体制で、ジブリで作品を作っていくことは難しくなる。今から話すことは宮さんと星野社長、2つの作品の現場で責任者をやっているお前には言っておくが、ジブリの制作部門は解散する」という話をされました。当時の僕が何を思ったのかは覚えていません。「かぐや姫の物語」と「思い出のマーニー」という2つの大作を仕上げるのに精いっぱいだったので。
そして「かぐや姫の物語」が完成し、米林監督と「思い出のマーニー」に専念する中、僕と米林監督、作画監督の安藤雅司さんに、鈴木さんから「お前らには迷惑をかけるけれどよろしくな」と言われました。「わかりました。最後まで作り上げます」と返答するだけでした。スタジオジブリの全スタッフも、こういう形で皆でジブリの作品を作るのは最後になるという想いで、決意をもってやりきった作品だと思います。
作品が完成して、プロモーション活動をする中で、当時、監督も僕も記者の方々から「新生ジブリ」と言われたり、「この次のジブリは何をやるのか?」と聞かれ、僕らは「一従業員だからわかりません」、「それはジブリに聞いてください」とはぐらかした答えをしたのは、そういった事情がありました。そして、映画が公開を迎え、全国を宣伝キャンペーンで回って、僕らがスタジオジブリに帰ってきたときには、スタジオはがらんどうで、スタッフは解散していました。二人だけでそこに戻ってきた時のことは今でも覚えています。「ジブリの一時代が終わったんだな」と思いました。
米林監督とは「思い出のマーニー」完成の打ち上げの後、二人でバーで話をしました。そこで、酔う前に質問したんです。「麻呂さん(=米林監督)、もう1本映画を作りたいですか?」と。ご存知の方も多いかもしれませんが、米林監督は、「うーむ」と、よくよく考える方なんです。その監督が僕の質問に「映画、作りたいです」と即答したんですね。正直、そういう答えがすぐ返ってくるとは思っていなかったんです。なにせ、長編アニメーション映画を作るっていうのは体力も精神も、極限まですり減ります。その時の米林監督は、僕から見てもボロボロの状態だったので、完成のすぐ後にそんな答えが出てくるとは思わなかったです。それに対し僕も、意地悪なんですが、「とはいえジブリはもう(麻呂さんの映画を)作らない。それでも作りたいですか?」とさらに聞きました。そうしたら、答えは変わらず、「作りたい」と返ってきたんです。「じゃあ、麻呂さんが作りたくて、僕をプロデューサーに選ぶなら、僕は現場を作ります。もし僕を選ばないなら、知人に優秀なプロデューサーがいますから紹介します」と伝えました。麻呂さんの答えは「西村さんとやりたい」でした。「じゃあ現場づくりは僕にあずけてください。僕と麻呂さんが、他のスタジオに身を寄せて作ることになるかもしれないし、全く違う方法で作ることになるかもしれません。それについては委ねてください」と言いました。
その時は不安ばかりでした。「ジブリ」の名前がなくて一体、制作費が集まるのか? 世界に誇れるクリエイターが現場に集まってきてくれるか? お客さんが喜んでくれる作品ができるか? クオリティは維持できるのか? 本当に1本の価値ある作品を作ることができるのか? そんな感じで不安はありましたが「やると決めたらやりましょう」とまずはスタートした次第です。
そして、企画会議を始めました。とはいえスタジオジブリは高畑勲監督、宮崎駿監督、鈴木敏夫プロデューサーの三人のいずれかが企画を決めることが多いので、若手が頭をひねって企画を出すという機会はなく、僕らもゼロから企画を立ち上げるということは経験したことがありません。「ああでもないこうでもない」と行ったりきたりで、時には口論もしながら企画会議は進みました。
実は、アカデミー賞でアメリカに行かせてもらったことが、大きな転機になったんじゃないかと思っています。アカデミー賞では授賞式の2日前にシンポジウムがあって、会場でトークショーをするんです。アカデミー協会の200~300人が詰めかけて、ノミネート5作品の監督、プロデューサー全員が登壇して語り合います。司会は「アナと雪の女王」の監督のお二人で、僕と高畑監督、「ヒックとドラゴン2」、「ベイマックス」などの候補作の監督とプロデューサーが登壇して、いろんな話をするトークショーのようなものです。
そこで問われた最後の質問が大変印象に残っています。「アナと雪の女王」の監督が、最後に「アニメーションの未来について、皆さんはどうお考えですか?」と。高畑監督も僕もいろんなことを話しました。最後に答えたのが「ベイマックス」のドン・ホール監督。彼とは1~2回、お話したけれど、西海岸の陽気な男で、シンポジウムの間、彼は足を組んで話していたりしたんですが、そんな彼が姿勢を正して「アニメーションの未来という質問ですが、僕らの作るアニメーションは、世界中の人間が映画館で初めて観るものなんです」と言ったんです。僕は最初、答えの意味を把握するのに時間がかかったのですが、つまりそれは、世界中の人間が子どもの頃、初めて映画館で観る映画はアニメーション映画なんだ、ということを答えたんです。ドン・ホールは続けました。「映画の作り手は、そこに喜びを非常に感じているし、一方で、影響を受けやすい子どもたちに見せるものを作っている我々は、そこに責任も感じている。喜びと責任を同時に感じながら、この5作品の監督とプロデューサーはこれからも映画を作っていく。それがアニメーションの未来です」と答えたんです。
僕は「こういう人がいるんだ」と、とても嬉しかった。なぜかと言うと、スタジオジブリで高畑監督、宮崎監督、鈴木プロデューサーが作ってきたものがその言葉の中にありましたから。快楽だけではない。面白いだけではなく、何を見せ、何を伝えるべきか?何を作るべきか?そこには責任が生じる。それを考えて、ためらいながら、もがきながら作り続けているのがスタジオジブリという会社でした。そういうことを考えて作っている映画の作り手が、世の中にちゃんと残っているんだなって。感銘を受けましたし、そりゃそうだ、とも思いました。
その2日後に授賞式では、残念なことに「ベイマックス」が受賞しました。僕らは、受賞者たちの肩を叩いて「おめでとう」と称えました。彼らのスピーチ後のCMの間、参加者は会場を出ることが許されるんですが、隣りに座っていた高畑監督が、多少がっかりした様子だったので「やけ酒でも飲みましょうか」って誘い出したんです。高畑監督はアルコールを飲めないのにビールで乾杯しました。そうしたら、他の作品の監督やプロデューサーが集まってきました。そこで、お互いを称え合って「『かぐや姫の物語』が受賞すると思ったよ」「いや『ヒックとドラゴン2』は素晴らしかったよ」って。称えあうというより、傷をなめ合ったワケです(笑)。ただそこで、空気を読まない男が一人いまして(笑)。「ヒックとドラゴン2」の監督なんですが、いきなり、みんなの和やかな雰囲気を壊すように「僕らの作品が一番さ」って言うんです。「なんで?」と聞いたら、彼はごくごく真剣な顔で「今ここにいる僕らがすごいんじゃない。僕らのスタジオには、世界最高のクリエイターたちが集まってくれた。その彼らが集まるスタジオがあり、そこにお金を出してくれる社長がいて、そんな現場で作った作品が世界一じゃないわけがない!」って言い切るんです。それに対して僕も抗弁したりして。「スタジオジブリという場所があり、日本で最高のクリエイターが集まった。そこで作られた作品は日本一、世界一だ」って。でも、そう言いつつ、すごく虚しさもありました。「そのスタジオジブリの制作部門はもう解散したんだな。技術者もクリエイターもバラバラになって、二度と戻らないんじゃないか?高畑監督、宮崎監督、鈴木プロデューサーの三人の志も潰えて、もう二度と自分たちが愛する作品は作れないのではないか?」と焦りました。
その晩、ぼくはホテルに戻って、新スタジオを作ることを決意しました。日本に戻って、すぐに米林監督にお会いして「麻呂さんの映画、新スタジオで作りたいです。どうなるかわからないけれど、米林監督と僕が作りたい作品は、ジブリの血を引いた作品ですよね。それなら旗を掲げないといけないんじゃないか? 一番厳しい道かもしれないけれど、その道を選びましょう」と言いました。それに米林監督も大賛成してくれました。「潔くゼロからスタートしましょう」と。そこでスタジオポノックを2015年4月に設立した次第です。
企画に関してですが、最初の企画会議で米林監督と話したとき、企画の方向性はそこで完全に合致していました。「どういう映画作りましょうか?」と話した時、「『思い出のマーニー』の真逆をやりましょう」と。僕らは「思い出のマーニー」でいい作品を作ったと自負していますが、僕自身としてはそこに一点だけ不満がありました。米林監督は宮崎監督の下でいろんな作品を作ってきました。米林監督は「崖の上のポニョ」の中のポニョがバーッと出てくるところの映像など、ダイナミックなアニメーションを得意としています。その監督が「思い出のマーニー」を作ること自体はやってよかったなと思います。米林監督の得意技を封じて「思い出のマーニー」を作ることで、監督が人物の繊細な心情を描ける監督であると証明されたと思いますから。
でもやはり、プロデューサーとして、米林宏昌監督のダイナミックなアニメーションが観たいんです。だったら、今回は、米林宏昌監督のアニメーションを爆発させて元気な女の子が動き回り、ロードムービーなのか、ファンタジーなのか、広がりのある世界をダイナミックに暴れまわるワクワク、ドキドキする作品をやろうよ、と。それは最初に決めました。いろいろと進めていく中で、2014年の年末頃、「一つのキーワードとしてこのモチーフではないか?」と伝えたのが「魔女」でした。その時の麻呂さんの顔は忘れません。「え? 魔女やるんですか?」ってクシャっとした顔をしていました。「元気な女の子が動き回るファンタジーに魔女はぴったりです」、「いや『魔女の宅急便』がありますよ」、「だからです! 『魔女の宅急便』は僕らの子ども時代の記憶にある、幸福な経験なんです。今、僕らにも子どもがいます。今の観客に向けた、全く新しい21世紀の魔女の物語が米林宏昌監督にはできるはずです。」という話をしました。そこで手渡したのが、今回の英国のメアリー・スチュワートの原作「The Little Broomstick」でした。なぜこの原作なのかということは、いずれ話しますが、今これを翻案しながら1本の映画に仕立てているところです。
米林監督:
他の会社で作るか、新しくスタジオを始めるかは、その時はわかりませんでしたが、西村プロデューサーが、さっきお話しした経緯を経て、「新会社を作って、映画を作りたい」と言った時は大賛成しました。僕らがスタジオジブリで制作していたものは、新しく作るのであれば、何もないゼロの状態から志をもって作っていった方が、自分たちの本当に作りたいものが作れるんじゃないかと思っていました。なので、新しいスタジオで作ることには賛成しました。でも、「じゃあどうしたらいいか?」という不安は感じていました。「スタジオポノック」という会社は出来たけれど場所はなく、企画会議はファミレスや喫茶店で二人だけでした…。魔女という題材をもらった時は「え?」と思ったけれど、原作を読んだら面白い話で、「これを元に今までとは違う、全く新しい形のアニメーションができるんじゃないか?」と思いました。「思い出のマーニー」は”静”の作品ですが、”動”の作品を作りたいと思っていたんです。「思い出のマーニー」はすごく好きな作品で、これで終わってもいいと思っていました。でももう1本作るなら、全然違う作品を作って、皆さんが思っているイメージを裏切りたいという思いもありました。「思い出のマーニー」が心の中を描いているなら、今回は、主人公の女の子が躍動的に動き、自分の意志で動き回るものにしたいと思いました。原作からイメージを膨らませて、脚本を作っていきました。今までの作品とは違って、アクションがある作品を作りたいと思いつつ、「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」でやってきた、一人の少女のそばに立って、観てくださった人にそっと寄り添い、少し背中を押せるような作品を作りたいと思いました。